癒やしは与えられるものではない

ぼくは「癒やし」というものは本人の中から自発的に湧き上がってくるもので、与えらたり与えられたりするものではないと思っています。

セラピスト側の「癒したい」「楽になってほしい」という気持ちはある種の欲なので、ともすれば押しつけになってしまいます。

もちろんセラピストは「人の役に立ちたい」とか「相手に良くなってもらいたい」という動機で志した人が多いと思いますし、その思い自体は悪いものでもないでしょう。
でもその気持ちが先走りセラピスト側の「理想の癒やし」を目的とすると、それは相手をコントロールすることにも繋がり反発も起きやすくなります。

人は相手のコントロールしようとする意図を感じると無意識に反発します。
合気道や古武術的な身体の使い方を体験すると良くわかるのですが、力で押そうとすると相手の体はその意図を感じとって即座に緊張し反発します。教育やしつけにおいても「あなたのためを思って」という一方的な意図の押しつけは相手に煙たがられます。

それはマッサージやボディワークにおいても同じです。
「こうした方が良くなるから・楽になるから」と良かれと思ってやることも、相手にそれを受け入れる態勢ができていないと単なる押しつけになってしまいます。

相手が「癒された」と感じるのはあくまで結果であって、それを目的とするとかえって「癒やし」から離れていってしまいます。何によって癒されるのかは人それぞれで違いますし、ましてや「これで癒されないのは(あなたが)おかしい」というのはセラピスト側の驕りでしかないでしょう。


「癒やし」という言葉を「感動」という言葉に置き換えるとわかりやすいかもしれません。

感動も本来受け手の中に自然と湧き上がってくるもので、表現者側が押し付けるものではないはずです。もちろん表現者として受け手に感銘を受けてもらいたいという欲求はあって然るべきですが、それを全面に出された表現は鼻につく表現となってしまいます。

「癒やし」も「感動」もきっかけは外からもらったものだとしても、自分の中で湧き上がったものだからこそ身体や心に対する影響が大きいのだと思います。
「癒やしとは感動とはこういうものですよ」と与えられるのではなく、いろいろなものとの関係性によって自分の中に見出すから、代替不可能なかけがえのないものになるんじゃないでしょうか。

単に与えられたものを受け取っているだけでは依存でしかありません。
「癒やし」と「自立心」は密接な関係にあると思っています。